syu ü e Roman

掃いて捨てるショートショート。

ドーリス

 計算高いと言われれば確かにそうかもしれない。
彼女が歯を磨くリズムも、歯を磨いている時に歯磨き粉がついてしまった白いワンピースも、彼女が回した洗濯機の水が擦れる音も、気付くと僕が出すギターノイズに飲み込まれて行っていた。ディストーション、人の音。薄いビールで流したパスタの温度。
記憶が飲み込まれる時間「それなりに」って日々。モッズコートと眠気。刹那的な冷たさに秒針が進む音。

  僕の心の温度は零度を超える事をしない。マイナス15度の平熱で今も生きている。
 水道水の匂いや、浴室の水垢。踵の擦り減った若者のスニーカーがコンクリートにへばりつく感覚。

時間と共に薄れていく情熱が破裂する。嘘とかどうでもいけど本当の事は言うなよ。手に届く距離に居ておくれよ。映画には、何も感じなかった。小詩人の様だった君が、僕を中途半端な小詩人に変えてしまったんだ。

 薄いビールを呑んで煙草に火を点けた時に思い出した、もう世界には誰もいなかったんだってさ。

。。。
 
 時代があと一歩だけ歩んでくれたら世界は君に声をかけてくれたかも知れない。
あと少しだけ、世界が正常な思考回路で進んでいたら君がそんな風にならなくて済んだかもしれない。これ迄に書いた文章が何の意味も無いと知っているかい?

 深夜の公衆電話ボックスの明かりで歩く。24時間も営業しないコンビニエンスストアの閉店後の店内で光る拙い光。
呑みもしないのに入り浸るBAR。今、深夜、2時半過ぎ。頭の悪い道に雪が積もる。最愛を思い出して襲う少しのノスタルジーに打ちひしがれる。
 君は肩までの長さの色素の抜けた髪の毛を揺らす。僕には海が空のように見えた。伸び切らない白い雲が浜辺まで来て溶ける。足元には真っ白な雪で時々、目の荒い砂が覗いた。死のうとは思わないと言いながら浜辺の雪に背中から倒れる。よく晴れた日の話。そんな話。

君はまだ何本も煙草が残っている煙草の箱をくしゃくしゃにして生理用品のゴミ箱に捨てた。手首には、4本程交差する細く真新しい糸状の傷が見えた。
 「キスマークなんてのは飼い慣らされた駄犬のやる事よ」って普通の頭じゃ出てこない台詞だよ。一言一句メモを取っておくべきだった。
僕の送って来た人生は、世間の言う普通より奇特である筈だ。でも、そんな言葉は浮かばなかった。その病棟には少しは君を落ち着かせる事や物はあるかい?
僕は今日も何も変わらずの先がない生き方をしている様です。今、深夜、3時前。

。。。

 彼女は人差し指の爪を噛むのが癖になっていた。爪先がギザギザになっていた。同じものを見るにしても人によっては感じ方が全く別になることもある。僕がくしゃくしゃだと感じていた煙草の箱も、爪を噛む彼女にとっては綺麗な形状の箱だったかもしれない。
 人がどう生きれば良いのかは学校で教えてもらえる。しかし、人を殺してはいけないのが何故かは教えてくれない。一編の詩が端から端まで進む頃には感情論が、倫理が、破滅する。鈴の音が鳴って世界が反転する。ファーの着いたくすんだ緑のモッズコートは少し彼女には似合わなかった。彼女がモッズコートを羽織り深い赤のDr.Martensの14ホールで雪の中を歩く。彼女を待つ部屋の明かりがカーテンの所為で水色に見えた。

 赤い軽四が暖まるのと共に窓ガラスの氷が溶ける。軽四のエンジン音とマフラーから出る煙の香り。僕はポケットに入った煙草に火を点けて車の中に入る。「バンッ」と音を立ててドアーを閉める。彼女も煙草に火を点けて窓を開ける。雪が散らついてマフラーを巻き直す。マフラーがシートベルトに絡んで「いっその事、このまま窒息して死んでしまいやしないか。」と思いってしまう。世界がぼやける頃に絡んだマフラーを解く。
 My Bloody Valentineのsoonが終わる頃に、海に着いた。外に出て防波堤に登り眺める。冬の海は、外の寒さと真夜中の暗さで見ることが出来なかった。しかし、僕の脳にも、彼女の脳にも明るい時間帯の冬の海の景色が広がった。「車に戻ろう」と彼女が言って、防波堤を降りる。波の音に雪を踏む音とエンジン音が少しだけ混ざって、車のドアーを閉める音がした。僕はもう少しだけ冬の海を眺めていたかったが、寒さがそうさせてくれなかった。防波堤を降りて、車に向かう。赤い筈の車が黒く見えた。雪の乗った部分と車体の塗装が親密になっている。車のドアーを開けるとMy Bloody Valentineのノイズとエンジン音、海の音が溶けて冬の寒さで混ざり、固まる。「寒い。早く閉めてよ」と言う声で、また溶けて、分裂する。
 
 コンビニでミネラルウォーターを買って、鞄からアスピリンとレスタス、レキソタンを出して飲む。「生理痛の薬と安定剤は一緒に飲んではいけないのかな? まぁ、いいや」と半分は独り言で僕に問う。
僕はコンビニの明かりを眺めながら「知らない」と答える。こんな記憶も僕には永遠に残るのだろう。暗い街景色を車のライトで照らし、帰路を行く。エンジンを消して水色の部屋に戻る。TVを点けて電気を消す。BLANKEY JET CITYのMV集をTVの明かりだけで探してDVDにセットし、再生する。ファンヒーターの音とsweet daysが一緒聴こえる。彼女が僕の服を脱がす。ガソリンの揺れかたで映像が飛ぶ。彼女越しに見るピンクとミドリの世界で時間が止まった気がした。

。。。

 デヴィット・ボウイのジギー・スターダストが、いつもの道を映画のワンシーンの様に変えてしまう。
車の助手席で鼻をかむ。ティシューを丸めて、後ろの足元にあるゴミ箱に捨てる。 ジギー・スターダストの合間に聴こえる車の屋根を叩く雨の音が、最後の曲が終わった後にも長く長く聴こえていた。

対向車のヘッドライトの光が僕を何度も、何度も、何度も、何度も刺し殺した。
 僕は、人生を謳歌している人間と楽観主義の人間を嫌いだ。感受性の面倒な人間と居た方が安心する。ニュースを見て朝からずっと泣いている様な。

 真剣に星の数を数える彼女は視力が悪かった。家に居るとコンタクトを外して眼鏡にするのだが「眼鏡の度が合っていないから余り見えない」と言い、続けて「コンタクトがあるから別に」と言っていた。
僕は「コンタクト合わせる時に眼鏡も作って来たらよかったじゃないか」と尋ねると「そんなに心に余裕が無いのよ」と言う。
 会話の後に買ってきた林檎は熟れて表面に少し油が浮いてきていた。彼女は触りたくないと言いながら林檎に包丁を刺して、それをゴミ箱の上で振り落とす。焦燥と斜陽が悲鳴をあげた気がした事を思い出している間に、彼女は車を街外れ迄走らせていた。

 彼女は煙草に火を点けて運転席側の窓を全開にする。
強く降る雨の白さと、彼女の白い肌を透かす生温さと一緒に、ほんの少しだけ雨の匂いがして、僕は彼女を5つ目の季節なのだと勘違いをしてしまった。

。。。

「まぁ、いいや」と言いながら足首の部分にレースのついたレギンスを、“するする”と脱ぐ。
失敗したドーナツの様な丸まり方をしていて、彼女はその失敗したドーナツを脚で放る。
 カーテンの下から、まだ群青の空明かりが覗く。ベッドのすぐ下で、本当はどうだっていいファッション誌を読む彼女に煙草を渡して、間接照明を五秒程だけ眺めて目を天井に向ける。
 間接照明を見ている間は電球のすぐ下だけ細かい粒子が泳いでいるのが見えていた。天井を眺めてからは何秒かの間だけ目に残る残光が視線についてきた。
 彼女が煙を吐く音と、さっき迄降っていた雨のせいで濡れた道を通る車が水を撥ねる音がした。
 「感情なんてものは大多数の人間が喪ってしまっているのだろう。」なんて考えていると、僕の命の灯火が明滅している気がした。

 彼女が立ち上がってキッチンの方へ行く。冷蔵庫からミネラルウォーターを出し、グラスに注いで薬を飲む。水の流れる音がしてから、すぐに蛇口を締める音がした。

「ねぇ、今何時?」
「知らないよ、携帯でも見なよ。と言うか前から思っていたけど、なんでこの部屋には時計が無いの?」
「さぁ」
気になって携帯を見る。丸いデジタル表記の数字が「3:52」と示していた。彼女が着替えてベッドに入ってくる。煙草の箱をベッドの頭側にある装飾部の棚に置く。
 「時間を僕だけが知る」なんて無駄な愉悦を彼女に台無しにされて、それは単なる夜に成る。

。。。

 彼女にはきっと言葉についた色が見えている。身体の温度は皆、然程変わらない気がしたけれど、他の誰とも同じ温度ではないと思う。それは僕等の心も身体も零度を越えやしないからだと思う。
「 例えばアダムとイヴが、そこら辺にある頭の悪い若者達が集まる様な飲み屋で出会っていて、その子孫が私達だったら凄く死にたく成らない?」
 彼女が僕に問う。僕は彼女に微笑んで、ベッドの頭側にある装飾部の棚に置いてある彼女の煙草に火を点ける。煙は揺ら揺らと上に上がって、吐き出し切れなかった煙の方は僕の心の何処かにある満ち足りないワンルームに住み込む。

自分の都合に合わせて神の存在を信じる様な、そんな人間になってしまった。無知で哀れな猿の様な。
 僕は自分が人を愛してはいけない人間だと気付いていた。

 

 「なぁ、さっき『まぁ、いいや』って言っていたけど何の話だっけ?」

公園

 

ラブホテル街のすぐ隣にある公園。

そこが僕の憩いの空間になった。
静かな公園。
その空間はある種、「感情」を孕んでいて、それでいて人を落ち着かせる何かがある様だった。

 

昼過ぎ、僕は自動販売機でエナジードリンクを買って、公園へ向かう為にラブホテル街を通り抜けようと歩くと、ホテルから出たであろう熟年カップルが幸せそうに手を繋いで歩いてる。
全く平和でしかない。


僕の目の前を風俗嬢と思われる中年の女と、客と思われる小太りの男が手を繋いで、歩いている。
僕は彼女達が公園前を通り過ぎていくのを見送る。

公園に到着してベンチに座ると、死んだ顔したサラリーマンがボトルコーヒーを一口飲んでは溜息、一口飲んでは溜息と呼吸代わりの溜息をくり返す。

浮浪者が大量の荷物を積んだ自転車を停めて煙草を吸ってる。
ここは禁煙なんだけどな。

作業着のおっちゃんも気をつけるのをやめたのか、誰かに電話をしながら煙草に火を点けた。
大きな声で建具の話をしているみたいだ。

その横で、僕はいつもの様に人生について考えている。

さっきの風俗嬢と思われる女が公園の水飲み場で、手を洗って出ていった。
執拗に洗っていたみたいで、それを見て少しだけ悲しくなった。
客の男に感情移入した訳ではなく、彼女の手首が浅黒くて簡単に折れてしまいそうで、まるで不健康な木の枝の様だったから。

 

この時間帯には大抵、主夫と思われる男が入って来て、いつもトイプードルを野に放って散歩させてる。
主夫が公園を出ようとするとトイプードルが嬉々と走って追っていく。
これは殺伐としたこの公園が、一瞬だけ見せる唯一の笑顔だ。

主夫は強めにパーマをあてている。


近くのラーメン屋の店員と思われる男が、ベンチに座って、着けていた赤いバンダナを頭から外して顔に掛けて上を向いてる。
腕を組んで、その男も溜息をついている。

僕はラーメン屋とサラリーマンのため息が重なる事を期待しているが、中々合わない。


ホテル街の隣なんて場所にある公園だ。
治安は良くないんだろう。
空き缶やらコンビニ弁当、ちり紙、タバコの吸い殻が散乱してる事もある。
今日はよく汚れていた。

浮浪者が煙草を何本か吸い終えて、空き缶だけ幾つか回収して公園を出て行った。
アルミ缶とスチール缶で要否を判断したのだろうか。

今までは気に留めた事もなかったのに、要否で分別している様な行動を見て、あれは仕事なのだと分かった。
自分が酷く無知だったのではないかと恥ずかしくなる。

 

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公園は、人を血の様に入れ替えて、色々な表情を見せる。
僕が座っている1時間の内、約30分程度を区切りにして、人が完全に入れ替わった。

入れ替わった後も、別の誰かは溜息をついている。
誰かは電話でそのまた誰かを怒鳴っている。

表情が変わっても結局、本質は同じで、当たり前だけれど、僕もその本質に取り込まれている。

僕は禁煙と掲示板に大きく貼り出されているから、そこで煙草を吸う事はしてないのに、気付くと口にくわえていた。
気付いて煙草を箱に戻す。
誰かに「別に気にしなくても良いのに」と言われている気がした。


時間が進まなくなった頃、気付けば公園を出る時間になっていた。
喫煙の欲求を押さえつけてベンチを立つ。
きっと誰かと入れ替わる時間なんだ。
公園を出ると、喧騒がより騒がしく聞こえた。

エナジードリンクの空き缶を捨てて、歩き出す。
前からは、さっきの風俗嬢と思われる女が、また別の客と思われる男と腕を組んで向かってくる。
勿論、僕等は目を合わせる事もなくすれ違った。
彼女は人気の嬢の様だ。


よく考えると、あの公園は簡素な遊具はあるのに子供の姿を見た事はない。
まぁ、立地を考えると当たり前なのかも知れないけれど「これまで」と「これから」を切り替えるスイッチの様な場所で、感情を巡らす大人だけの場所と言って良いのかもしれない。

二十一歳の彼女はもう無い。

 十七歳の時に開けた左耳のピアスの穴が二つとも塞がっている事に気が付いた。十年にも満たない、悠久の様にも感じれていた日々が、たった二つの穴が塞がっただけの事で、多少の変化を持って進んで行っている事を気付かせる。


僕の身体の細胞だけが死滅して再生している。
心は何も成長していない様に思えた。

 


 十八歳。何の学びも得ることが無かった高校の卒業式の日。
卒業祝いに貰った揺れる三日月のピアス、カーステレオから流れる安っぽい音になってしまったエルトン・ジョンの嗄れた声。重ねた指の薄さと生温さを今でも憶えている。
 その後に、殆ど手を付けていない祝福のケーキをワンホールごと床に落として、笑いながら写真を撮った事も。

 


 十九歳。卒業から半年を待たずに十九歳になった。卒業式のあの日以降の記憶は酷いものばかりで「ついに十九歳になってしまった」と、何故か、まるでその歳が節目かの様に“十九歳”と言う、その年齢を見ていた記憶がある。
 怠惰を重ねて、少し気が触れていた一年間だった気がする。

 


 二十歳。呆れるほどに白い朝と、アルコールに爛れた胃から上がってくる胃液の匂い、色をなくしたアスファルトの上を歩く音。
街を飾る頭の悪いイルミネーションの電球。
 少し歩くと、誰も居ない筈なのに何故か騒がしく感じた。
十九歳の時に感じた節目の様な感覚がなくて、怠惰を拭えないでいた。

 


 過去をなぞる様に、右手で二つの穴が塞がった左耳に触る。
穴が開いていた筈の場所は少し硬いしこりの様な物が残っていて、何も残らなかった自分の過去と重ねてはいけない様な気がして、右手を離す。

 この街は、あの頃過ごした街程、白くは無いし、透き通ってもいない。

 透き通った街が嫌いで、すぐにでも離れてしまいたいと思った二十一歳。
何の計画も無く街を出た。落ち着きのない心は地図を持たなかった。

街には、誰も残す事なく捨てて行くつもりだった。

 


 二十二歳。言葉を書けなくなってしまっていた。
折角、手にした六畳ばかりの自分だけの広い国も僕を隔離するサナトリウムの様に思えていた。
 それでも、無理に出した言葉が少しだけ誰かに触れたりしてサナトリウムに居心地の良さを見出していた。

 


 それから今の今まで空っぽで、でも、もしかするとそこには何かが詰まっていて、それに気付かないフリをしているだけかも知れない。


 今日は街の空気が冷たくて、ほんの少しだけ、ほんの少しだけ、透き通ったあの街の事を愛おしく思えた。

 

単純な駄文

‪心の血液を入れ替えないと、少しずつ、思うより早く身体は腐って‬行くので、僕は目を瞑って朝が来るのを待っている。
どうしたら入れ替える事が出来るのか考えては時計を見たりした。

 

34度3分の熱病に浮かされる。
目の前が大きくなったり小さくなったりして、仰向けになると、僕の背中が何にも触れていない錯覚があった。
外を歩く子供達の笑い声と蝉の鳴き声が現実へ僕を引き戻す。
血を入れ替えないと。

 

20と1回目の誕生日が最悪だった。
輪切りのパイナップルとスピリタスの匂いが饐えた臭いにも感じられる。
時計の針が12に重なった瞬間にスピリタスの熱が胃まで落ちる。
3年B組の教室から体育祭を眺めて、瓶が空になろうとした頃、視界がブレた。
あの2年11ヶ月ぶりのあの感覚がフラッシュバックして、当時と同じようにアルコールと胃液が混じった液体を口から漏らす。
本当に最悪だった。

 

記憶を洗うとどれだけの記憶が残るのだろうか。
僕は初恋の記憶は残る気がしない。
そもそも「初めての」事は大概、記憶から消えてしまう気がする。
始まりはいつも嘘だから濁っているし、もっと言えば汚れてると思う。

僕の血はきっと汚いし、心の血液ももう替えが間に合わない程に汚れているだろうけど、もう少し郷愁に焦がれたいし、もう少し記憶を作りたい。
心がパンクする位の血液で満たしたい。
それが汚い物でも、綺麗な物でも。

二十四時間は九十二日

  初めから分かってたんだと思う。
数十秒を数十分に感じてしまう程に倒錯してたから。

✳︎✳︎✳︎

 「呼吸もしたくないし、瞬きもしたくない。だけど生きていたいなんて思ってしまうの」
 彼女は、氷で薄くなったアイスコーヒーの様な色の木製テーブルに落とした白い角砂糖を指先で弾きながら言う。
 僕は話に興味が無い事に気付かれない様に要点だけ頭に残しながら適当に相槌を打つ。

 下校時間だろうか。薄暗い店内から制服を着た学生達が僕が眺める窓の前を一人二人と通り過ぎて行った。
テーブルの上に置かれたマッチを使って煙草に火をつける。
 彼女の言う「生きていたい」と言う言葉が、嘘だろうと本当だろうと、きっと彼女は生きて行く。この先もある程度高い水準の生活を送って割と不幸な事も起こらず生活を送るだろう。

 平日のこんな時間から喫茶店で煙草を吹かしている事自体に少しの罪悪感を感じて、それを珈琲で流し込む。

「もう帰ろうか」
彼女は一定の満足感を得た様で、帰り支度を始めた。買ったバッグやハイヒールを纏めて入れたビニール袋を僕に持たせようとする。
 僕はそれを受け取り、上着を脇に抱えて店を出る。
街の喧騒から逃れる為にタクシーへ乗り込み、彼女がマンションの位置を運転主へ伝える。

 十数分で到着したマンションの306号室が彼女の部屋で、彼女は部屋に着くとすぐに化粧を落として寝室に入って行った。
 僕は一七時に起こす様に言われて、それ迄の数時間を無駄に過ごす。ただひたすらに煙草を吸い、観葉植物を「ぼー」っと眺める。
 どれだけ煙草を吸っても、どれだけ観葉植物を眺めても、たったの二時間程度である筈なのに、僕の時間は進まない。
思考を始めると息苦しくなるのを知っているから思考では時間を潰せなかった。
 帰ってきてすぐに携帯電話の充電が切れているのに気付いたが、僕は面倒で充電をしていない。

 上京して適当に選んだ安アパートには帰らず、知らないうちに知らない女と付き合い、その女の家に転がり込んでいる。
 バイトも3ヶ月を待たずに辞めて、極めて純粋な怠惰を過ごす。
きっと、僕はこの怠惰からは抜け出せない。自分の意思なんて物は、あの安アパートに住んでから殆どなくなった。

 気付くと一六時半を回っていて、テーブルには煙草の吸殻で底が見えなくなった灰皿と煙草の空箱、赤い蝋が垂れた空き瓶が転がっている。
 「起きるの早かったね、まだ三十分近く残ってるよ」
「自然と目が覚めたの。アンタが、そんなの飲むの珍しいね、どうかしたの?」
「いや、一杯飲んでみようと思ったんだけれど、時間の計算を間違えただけ」
「そう」
 この部屋に戻ってから、今、彼女が言った「そう」を聞くまでの九十と六分ばかりの時間は時間と時間の摩擦熱で焼け落ちた。
 温度のない彼女の言葉は少し心地いい気がして、暫くは此の儘でも良いと思ってしまう。

 洗面台で歯を磨きながら、目の下の隈を何度か撫でて消そうとする彼女を、ソファの横から頭を垂らして、逆さ目で眺めた。
 口の中で唾液と混ざり合って泡立った歯磨き粉を吐き出して、プラスチックの浅いカップに入った水で口を濯いでいる。
 段々と彼女が透明になって行く様に感じた。

彼女はそれから暫く間、テレビのニュースを眺めて、携帯を弄りながら「なんか必要な物ある?」と僕に問いかけた。僕が「煙草」と答えると「あっそう」とだけ言って、携帯を弄り続ける。
 時計の針が縦に真っ直ぐ線を引く少し前に、彼女は小さな棚から、僕が吸ってるのとは違う銘柄の煙草を出して僕の方へ放って「行ってくるわー」と部屋を出て行った。

✳︎✳︎✳︎

 彼女曰く化粧や衣装は基本的には「あっちでやって貰う事」らしい。
 最初は思っていた時間よりも早く帰ってくる事や“あっちでやって貰う”と言う事に驚いたが、それにはすぐに慣れた。
 早い時間から出る時もあってその時は化粧もして、少し派手な格好で家を出る時もある。
 そこに生まれている差異は何なのかと考えたが「気分」と言う、実にシンプルな答えだった。

✳︎✳︎✳︎

棄てたばかりの煙草の吸殻がまた灰皿の底を隠す頃には、二十三時を回っていた。白いノートパソコンを開いて文章を打とうとしているのだけれど、一向に進まない。ほんの数ヶ月前迄は言葉が途切れる事なんて考えられ無かったのに。
 ずっと、僕の掌から言葉が零れ落ちて行く錯覚があった。何を間違ったのかが分からない。
 いつからだろうか、感じた事のない程の焦燥感が僕を襲って、自分が何をしているのかが分からなくなる事がある。
 自分が今、どんな感情なのか頭の中で確認しなければ分からなくなる。心と脳の通信が途切れてしまっている。そこまでは理解しているのにその先が分からない。

苦しいよ。

酸素で満たして。

光を当てて。

✳︎✳︎✳︎

 目を覚すと彼女はもう帰って来ていた。
下着姿でグラスに入った、水道水を飲みながら僕に質問をする。
「何日振り?」
「多分三日振り」
「何で薬飲まないの?」
「慣れるのが怖いのと単純に嫌いだから」
「そう。なんか食べる?」
「いや、いいよ」
「そう」
 自分だって碌に寝ていないし、薬も飲まない癖に。
 会話が会話では無くなってしまう様な気がして、酷く怖くなる。
「健康に成りたいなぁ」そう言って彼女はトイレで吐いた。
「飲んだから吐いてるだけ、飲んだから吐いてるだけ」と言っている声が聞こえていた。

✳︎✳︎✳︎

 真っ赤なカーテンをくぐって、窓を開ける。吸い込まれる様に黒い暗い世界と耳を刺す様な高音で響く鳴き声。
 慣れない味のする煙を肺いっぱいに吸い込んでゆっくりと吐き出す。青い灰色の煙が目の前からすぐに立ち去った。
風が遠くなる迄、黒い世界を眺めてから、また煙を吐き出す。
「此の儘、この窓の外に飲み込まれてしまえばどれだけ楽だろうか」
「本当に僕は選んでここに居るのだろうか」
頭の中で、そんな思考の十数秒が何度も何度も繰り返される。
 彼女がカーテンを開けて、僕の指から煙草を抜き取って、ほんの少しだけ煙を吸い込んで吐き出す。
吸い慣れていないと分かるその一連の動作と「映画ワンシーンみたいでしょ?」と微笑む彼女の顔を見て、僕は「ああ、これが間違いか」と気付いた。